ほしいものが、あるんだ
006:望みは唯一つ、それが叶うというなら他の全てを投げ捨ててもいい
感じる重たさはけしてこの家が背負う家業の所為ばかりではない。属するものとしてギルバートは何度か行為を行い容認されてきた。義理の兄弟達の反発は必至であったし受け入れてもらえるとさえ思っていない。力を得るためにもぐりこんだ家には弟がいてひどく驚いた。綺麗な顔で綺麗な髪で綺麗な瞳で、でもその双眸はそれぞれに異なる色だった。目を見張るギルバートにヴィンセントは薄く笑って見飽きちゃった目でしょ? と茶化した。ヴィンセントと時を過ごすうちに次第に具合が判ってきた。思いだしてきたと言うのか慣れたと言うのかは気にしない。ヴィンセントはギルバートを兄として慕ってくれるしギルバートもヴィンセントにざわつくような何かを感じた。見つめたいほど愛おしくて忘れてしまいたいくらい忌まわしいような、それを。
こんこん、と硬質に木を叩く音がしてギルバートがはっと目を上げた。気付けば部屋は暗くてすでに机上の本のページの字が読めない。在室と許可の旨を伝えれば扉が開かれてきらりと光がさした。廊下の灯りは煌々と昼間の様に照らしてはいないのにその金髪はきらきらと輝く。まるで紛い物みたいに。真紅と黄金の双眸が眇められてその薄い唇がふふっと笑みに薄く開いている。侍女を下がらせて何事かことづける。ヴィンセントは扉を後ろ手に閉めた。闇が満ちる。しゅっと音がして燐寸がすられて用意されていた手持ちの灯りに火がともる。ヴィンセントの皮膚は艶めくように艶めかしく肌理が細かい。細い金髪は量が多く豊かに肩や背中へ流れている。とろりととろける眼差しで淡く笑う。
「ギル、目を悪くするよ。眼鏡をかけたギルも僕は見てみたいけど」
ギルバートも慣れた動作で卓上灯をつけた。部屋がぼわりと綿毛につつまれたように薄明るくなる。ヴィンセントはいつも何かギルバートが思ったより近くにいて、ゆっくりと歩み寄ってくる。音さえ立てないその歩みは揺れる手持ちの灯りのリズムだ。長い髪をなびかせるようの小首を傾げて穏やかにヴィンセントは笑んだ。縫いぐるみや家具や天幕を引き裂いたり鋏を突き刺したりするのが嘘のようだと思う。ヴィンセントはギルバートにはいつだって優しくてギルバート以外には冷淡だっだ。片鱗しかない記憶の欠片の中でヴィンセントはギルバートに優しい。ギルバートの醜さがもう目を背けられないほどまざまざど、それほどにヴィンセントは優しく甘く冷たく。
「ギルに訊きたいことがあるんだ」
「なんだ」
机上を片づけながら問えばギシリと椅子の背が軋んだ。振り向く前に背後から抱き締められる。机上に置かれた明かりはいつの間にか二つに増えていた。
「エリオットの事、どうしてエリーって呼んだの。皆が怒るからギルは呼ばないと思ってたのに」
エリオットがギルバートやヴィンセントが属することになった血統の中の末弟だ。エリオットや義兄たちはその誇らしい血統に統べられてギルバートやヴィンセントは当然のように弾かれる。義理の兄弟という血のつながりのないことは決定的で埋まらない溝だった。エリオットは偏見だとか嫌悪だとかそういうものにとらわれない感性で、ギルバート達が嫌われるのはそういうことをしたからだろうと言ってのける。そういう公平さやおおらかさは素晴らしいと思うのにギルバートはいつも辛いような、鼻の奥がしびれる感覚でエリオットを見つめ返すことしか出来ない。
「呼ばなきゃ離さないと言われて…急いでいたし、俺が叱責されるだけなら構ないと」
「好きなの」
「一応、弟だろ」
「僕は一応どころじゃない弟だよ。エリオットと僕とどっちが好きなの、兄さん」
ギルバートの視界に入らない位置に留まりながらすりすりと頬を寄せてくる。確かな体温と滑らかな皮膚と、ひどく冷たいような空気。
「…比べられない。ヴィンスも、エリオットも、弟だ…」
「ギルにヴィンスって呼んでもらうのは好きだな。ギルの声で言われる名前なら何だって好きだよ」
薄く綾なす布地の袖をひらめかせて絹の手袋をはめた指先がギルバートの頤をとらえた。腕力に差があるとは思っていなかったギルバートに、その不意の拘束が駆けあがるような怖れを抱かせた。ギルバートも裏稼業を担う一族に身を寄せている以上、汚い真似は何度もしたし、その手や服や体を何度も血だまりに浸した。今まで、そしてこれからも耐えるのは目的があるからだ。
温い肉や熱い血やそういったものに何度も吐いて震えて魘されて、それでも武器を持つのは、たった一つだけかなえたいことがあるから。主人を取り戻すためだ。目の前で消えて行ってしまった主人を取り戻す。そのためになら俺は何でもしてやる。代々の特殊な能力を掻っ攫うために体を鍛えたり獲物の使い方を覚えたり血を浴びたり。愚にもつかない拙い報告や密告や、罵倒や制裁を繰り返されながらギルバートは、主人を奪い返す資格を得るために力が欲しい。ヴィンセントの金髪は茫洋と主人に似て見える。主人も綺麗な金髪だった。オッドアイは暗く煌めいたまま眇められ、閉じられることも逸らされることもなくギルバートを見据えた。断片的な記憶の中でギルバートはただ蔑みと暴力だけを思い出す。要因は知らない。ヴィンセントに訊こうかとも思ったが愉しいことではないし機を逃してそのままだ。辛いことならわざわざ掘り返すこともないだろうと、ギルバートは逃げている。それを抑えるかのように引きとめるかのように、ヴィンセントはギルバートを執拗に兄さんと呼び慕う。あなたと僕はつながっているんだよ逃げられなんかしないんだ、あなたの目が見えるなら僕の目も見える。ヴィンセントの謎めいた宣言は喉に引っかかって何となく忘れられない。
「兄さん、またオズって人のこと考えているんでしょう」
図星なので反論しない。ギルバートもずいぶん鍛えられたものであると思った。この家に来た当初は動揺と叱責と不手際で戦々恐々としていたのに。戯言さえも聞き流せるようになった。
「でもいいんだ。僕に兄さんが見えるように、兄さんには主人が見えるんでしょう、ただそれだけ。でもね」
ぐんととらえられた頤を引っ張られて体のバランスが崩れた。椅子ごと倒れるのを引きずりだされて床へ仰臥する。ヴィンセントが上から覆いかぶさる。金髪が幕のように垂れて机上の灯りを緩衝した。紅い瞳はぼうとした明かりに融けて黄金の瞳は硝子のように冷たく煌めいた。嵌めこんだようにそこだけいつまでも残影する。ヴィンセントの瞬きが感じられないほど密に息を詰めた。
そのまま唇が重なった。渇いたギルバートの唇をヴィンセントは甘い蜜のように何度もついばみ、吸いついた。ヴィンセントの唇はたっぷりと豊潤に濡れて針を刺したら蜜が溢れると錯覚させる。ギルバートがまだこの家に馴染みきれない不自然さがあるのに対してヴィンセントは確実にこの一族に慣れつつある。
「緊張してるの、体が固いよ、兄さん」
ふふ、とヴィンセントの吐息がギルバートの喉をくすぐる。スカーフの結び目を解くのを好きにさせる。ヴィンセントは過剰なほどの接触を好み、ギルバートも普通なんて知らないから止めるべきかどうかの判断がつかない。結果としてギルバートはヴィンセントの暴挙を暴挙とさえ思わず赦している。
「兄さん、僕ね、僕、どうしても欲しいものがあるんだよ…」
この家柄であれば大抵のものは手に入る。なにが欲しいのだろうと怪訝なギルバートの思考はヴィンセントが撫でてあげる体温にかき消されていく。
「でもちょっとすぐには、手に入りそうにないんだ。だからね、僕は外堀から埋めて確実に絶対に手に入れるんだ」
ギルバートの火照った意識は頬を撫でる滑らかな布地の感触に埋まる。ヴィンセントが触れてくるたびに頭はぼうっとして体温が上がる。熱い息を吐くギルバートにヴィンセントはにっこりと穏やかに笑んだ。
「…お…ま、えの…ほしい、もの?」
「そうだよ、兄さん。兄さんはやりたいことがあるんだよね。でも僕にも欲しいものがあるんだよ。もうそれはそれはたまらなく焦がれるくらいにほしいんだ」
ギルバートの意識がとろける直前、ヴィンセントは唐突に手を退いた。ギルバートの体温が緩やかに下がっていく。
「だからね、今日はこのくらいにしておくよ。兄さん、また来るよ」
裾の長い上着を颯爽と翻して運ぶ足取りは中性的だ。肩まで覆う長い金髪やその仕草がヴィンセントの性別さえ曖昧にする。ギルバートはゆっくりと体を起こす。スカーフは結び目を解かれただけでまだ首に絡んでいた。部屋の空気は冷えて音を立てそうだ。ぼんやりした頭のままに机上を見る。芯を燃やしながらじりじりと瞬くように点滅する明かりが二つ、残っていた。
兄さんがそうであるように、僕も。
たった一つ叶うなら他のことすべて犠牲にしたっていい。
馬鹿みたいでしょう
でも僕も兄さんも、同じなんだよ
《了》